アドミニストレータによってシンセサイズされたユージオは、青銀の甲冑に身を包む三十二番目の整合騎士”ユージオ・シンセシス・サーティツー“へと変容し、キリトたちの前に立ちふさがりました。

無二の親友、そしてアインクラッド流の師弟でもあるキリトとユージオ。
避けることができない戦いの中、二人が初撃に繰り出したのはアインクラッド流片手直剣突進技《ソニックリープ》でした。
第二十一話は、キリトとユージオの師弟対決がメインの回です。
この回からオープニングアニメが少し変わっていましたね。
©2017 川原 礫/KADOKAWA アスキー・メディアワークス/SAO-A Project
キリトとアドミニストレータの戦いのシーンは動きや表情が細かくて良かった。
普段の戦闘シーンもこれくらいの質で描いてくれればいいのに…。
後方宙返り蹴り技《弦月》
さて、キリトとユージオが同時に放ったソニックリープは威力もスピードも全く同じ。
同じタイミングで同じ技を放ったのだから全てが同じになるのは当たり前と思う人もいるかもしれませんが、キリトは技をただ出しただけでなく、足の蹴りと体の捻り、そして腕の振りによって秘奥義に三重の加速を与えており、この技術はユージオにまだ伝え終えていないものでした。
ユージオはキリトの見ていないところで、毎日何百回も、愛剣の《声》が聞こえるようになるまで地道に愚直に剣を振り続け、この技術を習得したのだろう、とキリトは推測しています。
均衡状態が続きソニックリープが終了した瞬間、高速の近接戦が始まりました。
右上段斬りから右の薙ぎ払い、左斜め斬り下ろしを経て二度目の鍔競り合いに移行する二人。
「本気で剣を交えたら、俺とお前のどっちが勝つのか、ってな。……正直に言えば、いつかお前には追い抜かれるだろうって、そう思ってた」
アニメではカットされていますが、キリトはこのセリフの後に締めくくりのフレーズを投げかけています。
「……でも、いまはまだ、その時じゃない。俺のことも、アリスのことも、ティーゼやロニエたちのことも、カーディナルのことも忘れてしまったお前じゃ、俺には勝てない。それをいま、証明してやる」
このセリフは大事だと思うのになぜカットしてしまうのか…。
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――これはお前に見せた事のない技だ。
キリトが放ったのは、後ろに倒れこみながら全身をコンパクトに回転させ相手を蹴り上げる、アインクラッド流《体術》、後方宙返り蹴り技《弦月(げんげつ)》。
アニメでは、この弦月でユージオの右手を蹴り上げて青薔薇の剣が天井に刺さるという内容になっていますが、原作ではもう少し細かい攻防が描かれています。
まずキリトが狙ったのはユージオの下あご部分。
キリトの狙いを察したユージオは剣の刀身ではなく柄頭(つかがしら)で迫りくる右足を迎撃しようとします。
逆手握りでの柄当ては、アンダーワールドには存在するはずのない実戦的テクニックであり、旧SAO時代でも、よほど対人戦慣れしたプレイヤーでなければ使わない高等技術です。
蹴り足を横から柄当てされてしまえば、弦月の軌道が逸れて回避されてしまい手酷い反撃を受けるのは必至。
そこでキリトはスキルがファンブルしない僅かな間右足の出を引きとどめ、ユージオの右手を先行させた後、剣を握る右手の甲へ蹴りを見舞いました。
着地と同時に左下から右上へと斬り上げる単発ソードスキル《スラント》を繰り出すキリト。
©2017 川原 礫/KADOKAWA アスキー・メディアワークス/SAO-A Project
「バースト・エレメント」
剣を失い無防備だったユージオは五個もの《風素》を同時に炸裂させ、爆発的な突風を発生させました。
暴風に翻弄されつつもなんとか体を制御しダメージを最低限に抑えたキリト。
両者の間で突風を発生させているので、当然ユージオも暴風に押しやられているはずなのに、アニメでは全く動いていない…細かいところが雑なんだよなぁ。(原作ではきちんと描写されている)
本物のユージオ
©2017 川原 礫/KADOKAWA アスキー・メディアワークス/SAO-A Project
「……あの者が、本当に、お前の相棒のユージオなのですか」
ユージオの戦いぶりに違和感を感じたアリスがキリトに訊ねます。
本来なら心意技や武装完全支配術、秘奥義や神聖術の要諦は長い研鑽を経て初めて見につくもの。
それを整合騎士になってたった数時間のユージオが習得している事をアリスは疑問に思ったのです。
アニメでは、この後すぐに「私が相手をしましょうか」というアリスのセリフになりますが、原作では「ユージオなのですか」というアリスの問いにキリトは「……ユージオだ」と答えています。
アドミニストレータならユージオそっくりの偽物を用意する事も可能かもしれないし、なぜユージオがわずかな時間で様々な技や術を使いこなしているのかも分からないが、目の前の整合騎士は自分の相棒にして親友であるユージオ本人に間違いない、とキリトは確信していました。
そうでなければ、誇り高い青薔薇の剣が、偽物などに従うはずがない、とも。
この時点でキリトは自分の全てを剣に乗せ、ユージオに撃ち込む事を決意。
©2017 川原 礫/KADOKAWA アスキー・メディアワークス/SAO-A Project
――頼むぜ、相棒。
――戦いが全部終わったら名前をつけてやるから――俺に、力を貸してくれ。
あらゆる雑音が、背景が、温度までもが遠ざかる。世界には俺と黒い剣、ユージオと青薔薇の剣しか存在しない。この瞬間が訪れることを、俺は二年前から心の奥底でずっと畏れ、そして待っていた。
――行くぜ、ユージオ!!
SAO アリシゼーション・ユナイティングより
原作のこの部分の描写すごく好きなんですが、アニメではただ構えているだけで全く緊迫感が感じられませんでした。
ここから秘奥義なしの接近戦が始まり、二人とも両手持ちに移行します。
戦闘シーンの解釈
©2017 川原 礫/KADOKAWA アスキー・メディアワークス/SAO-A Project
気になったのはこのシーン。
キリトの上段斬りがユージオの左肩口を捉え、ユージオの攻撃も同じくキリトの左肩口を捉えている部分です。
宙に舞う金属の細片に、真紅の飛沫が入り混じる。手応えからして深手ではないが、ついに俺の剣がユージオの体を切り裂いたのだ。
友を傷つけたと認識した瞬間、俺も同じ場所に、我が身を斬られたような痛みを覚える。避けがたく顔が歪むが、ここで手を止めるわけにはいかない。垂直斬りが床に達した瞬間に手首を返し、全身のバネを使って追撃の斬り上げを――
SAO アリシゼーション・ユナイティングより
原作を読むと、このシーンは無二の親友であるユージオを傷つけてしまい、自分も同じ場所を斬られたのと同じくらい辛く苦しい、というキリトの内面を描いていると僕は解釈したのですが、アニメ制作陣はこの文章からキリトも物理的に斬られたと解釈したみたいですね。
バルティオ流《逆浪》
©2017 川原 礫/KADOKAWA アスキー・メディアワークス/SAO-A Project
激しい接近戦の中、体当たりによってバランスを崩したユージオに向かって《スラント》を繰り出すキリト。
ユージオはすでに左肩に傷を負っており、このスラントが右肩に当たれば、これまでのようには剣を振れなくなる、と計算しての一撃でした。
体勢を崩し、右後背を晒した姿勢になっていたユージオが反撃できる術はないと考えていたキリトでしたが…
©2017 川原 礫/KADOKAWA アスキー・メディアワークス/SAO-A Project
緋色の閃光を迸らせながらユージオが放った技は両手剣単発技《バックラッシュ》。
このソードスキルは敵に背後を取られた状態から、反時計回りに猛然と回転し逆転の一撃を狙うカウンター技です。
キリトのスラントとユージオのバックラッシュ、二つの技が激突し二人の剣は大きく弾き飛ばされる…はずなのですが、アニメでは技が終了する事なくそのまま鍔迫り合いに。
原作では弾き飛ばされた後、キリトとユージオの両方が単発上段垂直斬り《バーチカル》を発動させて鍔迫り合いに移行します。
「……今の技、名前はあるのか」
ユージオに教えた覚えがない《バックラッシュ》について訊ねるキリト。
「……バルティオ流、《逆浪(げきろう)》」
バルティオ流は、北セントリア修剣学院でユージオが傍付き練士として仕えた上級修剣士ゴルゴロッソ・バルトーの流派でしたね。
《スラント》がザッカライト流では《蒼風斬(ソウフウザン)》、《サイクロン》がセルルト流では《輪渦(リンカ)》、《バーチカル》がノルキア流では《雷閃斬(ライセンザン)》と呼ばれているように、《バックラッシュ》はバルティオ流では《逆浪(げきろう)》と呼ばれているようです。
自分や周囲の人間の記憶を失いながらも、技の名前やその使い方を憶えているユージオ…
フラクトライトに挿入された敬神モジュールによって記憶の流れを遮断されているのなら、今モジュールが差し込まれている領域に存在した記憶を知る事でユージオの目を醒まさせる事ができるかもしれない、とキリトは推測します。
ひび割れた記憶
©2017 川原 礫/KADOKAWA アスキー・メディアワークス/SAO-A Project
「刃に込められたものは相手の魂にまで届く。俺は、そう信じる」
アドミニストレータの術を破るためには言葉だけではきっと足りない、と考えたキリトは剣を通して言葉以上のものをユージオに伝えようとします。
アニメのセリフ部分だけ聞くと、いきなりのくさいセリフに驚いた人も多いかもしれませんが、ここも原作をカットしてつなげてるからやや言葉足らずな感じになってると思います。
俺は、鋼鉄の浮遊城アインクラッドに囚われたあの日から、たくさんの人たちと剣を通して語り合ってきた。アスナ、直葉、シノン、絶剣。この世界に来てからも、ソルティリーナ先輩やウォロ主席修剣士、エルドリエやデュソルバート、ファナティオら騎士たち。そして背後で戦いを見守るアリス。
仮想世界の剣は、ポリゴンでできたオブジェクト以上の意味を持つ。己の命を預けるがゆえに、刃に込められたものは相手の魂にまで届く。憎しみから解き放たれた剣は、時として言葉を超える交感を生み出す。俺は、そう信じる。
SAO アリシゼーション・ユナイティングより
ここからキリトは型も技も戦術もない本能的な連続攻撃を仕掛けます。ただ速く、ひたむきに。
アニメではごちゃごちゃと説得していますが、剣で語り合うと決意したキリトにこんなに喋らせる必要はないのでは、と個人的に思いました。
©2017 川原 礫/KADOKAWA アスキー・メディアワークス/SAO-A Project
そして、その後アニメではユージオの視点で幼い頃の記憶が再生されるのですが…
原作では激しい打ち合いの中で、存在するはずのない幼い頃のユージオとのチャンバラの記憶がキリトの脳裏に浮かび上がるという描写になっています。
一合剣を交えるたびに、不可視の殻がひび割れていくのを感じる。
いつしか俺は唇に荒っぽい笑みを浮かべている。そう、ずっと昔、こんなふうにユージオと無茶苦茶な剣戟、いやチャンバラをしたことがあったはずだ。修剣学院の修練場で、ではない。央都を目指す旅の途中でもない。そう、ルーリッドの村にほど近い草原や森で……剣の修行のつもりで、おもちゃに毛が生えたような手作りの木剣を……まるで子供のように、ひたむきに打ち合った……。
二年と少し前、森の中で出会ったばかりの俺とユージオが、そんなことをしただろうか?ひび割れているのは……俺の記憶………?
SAO アリシゼーション・ユナイティングより
原作と全く同じにアニメを作る必要はないと思うので改変したりするのも制作陣の判断ですが、ファンとしては原作で詳しくキャラクターの心情が描写されている部分などはできればそのまま使ってほしいかなと。
そもそも、アニメアリシゼーションは気合の入ったオリジナルをガツガツ入れて原作と違うものにしようと試みたり、逆に原作を忠実に再現しようとしたりするわけではなく、原作の細かいところは読み飛ばしてストーリーの大筋だけを適当になぞっているだけなのがあまり面白くない一番の原因だと思います。
制作側の熱意をあまり感じないんですよね。(食べ物とかの描写以外)
記憶が戻ったユージオ
©2017 川原 礫/KADOKAWA アスキー・メディアワークス/SAO-A Project
剣戟の中で記憶が戻ったユージオ。
自虐的な仄かな笑みが印象的でしたね。
©2017 川原 礫/KADOKAWA アスキー・メディアワークス/SAO-A Project
「エンハンス・アーマメント」
ここで物凄くオーバーな動きから武装完全支配術の”強化”《エンハンス・アーマメント》を唱えるユージオ。
原作では、キリトが終戦の意思表示と思うくらいゆっくりと床に剣を突き立てたはずなんですが、アニメでは完全に武装完全支配術を使おうとしているモーションでした(笑)
それと、原作でユージオが唱えた式句は《リリース・リコレクション》、”記憶解放”。
アニメではなぜ”強化”にしたんだろう。理由があるのでしょうか。
©2017 川原 礫/KADOKAWA アスキー・メディアワークス/SAO-A Project
“解放”ではなく”強化”で完全な氷漬けになるキリトとアリス…。
整合騎士になっても実力ではアリスより下のユージオが、ただの”強化”で実力者の二人を氷漬けにするというのが全く理解できないけれど、制作陣はそれでよかったのでしょう。
キリトとアリスを動けなくしたユージオは昇降板で上階へと昇っていきました。
「……ごめんよ、キリト……アリス。僕を、追ってこないでくれ……」
キリトvsユージオ。
原作小説では大好きなシーンのひとつだったので、アニメでどのように表現されるのかと本当に楽しみにしたんですが…
びっくりするぐらい残念な出来でした。
原作を中途半端になぞるだけで、細かいところは全く反映されていないし、動きもお世辞にもかっこいいとはいえない上に見せ方も微妙。
前々からずっと思っていた事なんですが、今回の制作陣はこのSAOアリシゼーションという作品のどの部分を視聴者に伝えたいのでしょうね。
心情描写も少なく、戦闘シーンも微妙。ストーリーも原作を十倍くらいに薄めただけ。印象に残っているのは第十話とエンディングアニメラストのキリトとユージオのハイタッチのところくらいでしょうか。
原作小説(アリシゼーション編)は本当に面白くて、一期や二期に全く負けていません。それどころかアインクラッド編やマザーズロザリオ編と並んでSAOシリーズ最高傑作の候補ともいわれているくらい。
そんな最高傑作をなぜこれほどまでに平凡な作品に仕上げてしまうのか…。
間違えないでほしいのは原作の出来が悪いのではなくてアニメの出来が”いまいち”という事です。
Amazonプライムビデオ等のレビューでアニメしか見ていない人にストーリーを批判されているのを見ると本当に悲しくなります…。
前監督の伊藤智彦さんもカットや改変はしていたけれど、作品に対する愛と類稀なセンスで、原作よりもアニメの方が面白いと思わせてくれるところや感動するところをたくさんつくってくれていました。
キャラクターの心情描写はもちろんの事、戦闘シーンについても、絵自体は今の方がきれいかもしれないけれど、”魅せ方”が上手で、ソードスキルを使っているキャラクターの動きなんかがとにかくかっこよかった。(特にアインクラッド編とマザーズロザリオ編は素晴らしい)
今年九月に上映予定のオリジナル劇場アニメ「HELLO WORLD」の制作で手一杯だったのは分かりますが、SAOシリーズは最後まで伊藤監督でいってほしかったです。
次回につづく…


コメント
個人の感想なのであまり言いたくはないけど、原作は原作のよさが、アニメではアニメでの良さがあるので、そこまで原作に囚われない方が良いと思います。アニメは綺麗な映像描写でしたし、監督さんが変わった?のなら、最初の方はしょうがないと思います。
正直言って私も原作の方が好きで感動できる所がものすごいあるので、そこをアニメにも取り入れてほしかったって言う思いもあります。これの後のアリシゼーションwar of underworldの所はすっごい面白かったなと思います。
匿名さん、コメントありがとうございます。
そうですね。アニメにはアニメの良さが原作には原作の良さがあると思います。
ただ、これまでの伊藤監督が手がけたシリーズやアリシゼーションの原作が好きな自分には合わなかった、というか監督が視聴者に見せたいものと自分が見たかったものがあまりに違うかったので愚痴ってしまいました(笑)最初は本当に楽しみにしてたんですが。
途中で愚痴ばかりになってしまって感想を書くのを中断してしまいましたが、「War of Underworld」は作画や戦闘シーンの見せ方なども改善され、おそらく小野監督がやりたかったことであろうCGを駆使した大人数の戦いなど見所がたくさんありました。
心情描写を大胆にカットして子供でも楽しめるようにシンプルにつくったのは作品作りの方向性が定まった証拠なのかもしれませんね。